仕事

残業自慢は、”僕は仕事ができないんです!”と言っているのに等しい

会社に勤めていると、「どれだけ長時間働いたか」を自慢する人に出会う。

「忙しくて昼ごはんが食べれなかった」、「俺は終電で帰るのなんて当たり前」なんてことを、嬉しそうな顔で語られたりする。

僕自身はいつも、「僕にはできませんよ〜」、「残業したくないです〜」と答えたりするのだけれど、「これだから若い子は」、「もっと頑張ろうよ」とたしなめられてしまう。

電通の女性社員が自殺に追い込まれた事件の背景にも、「80時間の残業くらいで、、」とか「俺はもっと働いているのに」といった、非難と自らを賞賛する残業自慢をしている人もいた。

みんなが同じように働けるわけではない。個性を認め、事情を考慮する大切さ

たしかにどれだけ働いても、疲れない人はいるのかもしれない。
けれども、一人として同じ人間はいないのだから、長時間働けない人だって沢山いるのだ。

病気になって、週に数回しか働けなかったり、体調を崩しやすかったりと、様々な事情をそれぞれが持っている。

人間は機械のように、一律で、いつも同じ生産性を出し続けることができない。
他の人が80時間残業しているからといって、自分もそれに合わる必要はないし、それが当然かのごとく受け入れてしまうのは問題だろう。

客観的に物事を見れるようになると、個人差を認められる

個人差を認めることは、自らを客観視することにも繋がる。

周囲が同じような集団であるほど、人間は自分の立ち位置を正確に捉えることができなくなるからだ。
例えば、コミュニケーションの側面でオタクは非難されやすい。

その理由の一つが、”仲間内で通じていることが、誰にでも通じる”と錯覚しがちだからだ。

仲間内で通じる、漫画やアニメの知識といった共通言語。
これらは、オタク集団から離れた際に、会話として成立しづらい。
しかし、彼らは自らを客観視できていないことが多く、周囲からの理解が得られない。

彼らに足りないのは、自分の立ち位置を俯瞰的にみて、位置付ける能力だろう。(すべてのオタクが当てはまるわけではないが、あくまで傾向があるというだけ)

職場を絶対視することなかれ

これと同様に、同じ職場に何年も務めていると、その職場を絶対視してしまう。

残業が当たり前の職場であれば、長時間働けない人は異端に移るのかもしれない。
他の人は、「長時間働くのがしんどいのだろう」という想像力を持つことができない。

僕が大切だと思うのは、自分とは違った他者を尊重しようという姿勢である。

「自分ができたのだから、他の人もできる」と考えないことだ。
それぞれの立場を尊重し、彼らに「甘い」とか「できない奴」といった烙印を押すのは、自らの視野の狭さを吹聴しているようで、みっともない行為だと感じる。

これらから、「俺はこれだけ頑張っている」という残業自慢は、あくまで個人の意見であり、従う必要性なんてないことがわかる。

自分が辛いと感じたら、それは辛いことだし、無理だと思ったら、そこがあなたの限界なのだ。

自身の心の声に耳を傾け、正直に従おう。

最後に

残業自慢をしている人のすべてが、本当に喜んで自慢しているのかはわからない。

実際には、辛い状況から目を背けるために、「こんな状況でも頑張っている」と自分を鼓舞し、頑張っている自分に酔っている人も多い。
それに、別に残業をしなくても、もっと効率的に仕事をすれば早く帰れるんじゃない?という人も見かける。

残業は美談として語られることが多いけれど、本来は別に素晴らしいことではなく、業務の能力やプロジェクトの管理が甘いといった、遂行能力の怠慢にも少なくない原因が潜んでいる。能力をなさを誇示するのは、実はみっともない行為だったりする。

周りの声に惑わされず、自分がどう感じているのかを大切にしたいものである。