オピニオン

心の中で起きている事柄を分析してみると、現在の自分の状況がわかってくる。
呼吸が浅くなっているな、
指の皮をいじる癖が出てきたな、
人に対して悪い見方をするようになった、
そういった、普段とは異なる態度や症状が現れてくる。
その一つ一つは見過ごすことのできる些細なものなのかもしれないけれど、
一度見過ごしてしまうと、後々手が追えない雪玉となって自分自身を襲うこともある。

僕は仕事をしている時、常に自分の感情に気を配るようになった。
以前であれば、無茶を押し通そうが、ストレスに苛まれようが、何も考えずに突っ走ってしまったように思う。
一生そのままの状態を突き通せればいいけれど、いずれ限界は訪れる。僕は、体調を崩し、起き上がることができなくなった。
日々感じているはずの、感情を無視し、体から発せられる悲鳴から目を背けることで、走ってきたんだ。
見栄えは良くても、柱が壊れかけている高級住宅のように。
でも、気付いた時には、心と身体は消耗し、
どうすることもできなくなっていた。

「人のことを大切にしよう」と意識するのは簡単でも、
「自分を大切にしよう」と意識することは、難しいんじゃないかと僕は思っている。
家族や友人に対しては横暴に振る舞えるのに、見ず知らずの他人には、これでもかというほど親切にする人がいる。
その人は、きっと、
「身近な人は自分のことをわかってくれるだろう」
「多少存在に扱っても許してもらえるだろう」
そんな甘えのような感情を持っているんじゃないかな。

これと同じで、
「自分のことなら自分が一番わかっている」
「適当に扱っても大丈夫だろう」
そんな気持ちで、自分のことを軽んじている人が多いんじゃないかな。

自分のことを大切にできない人は、他人を大切にできない、
と言われることがある。
僕は本当に、その通りだと思っていて、
一番身近な存在(自分)を大切にできない人間が、他人を大切にできるわけがない。
身体から発せられる悲鳴に気づけないのは、感情を感知するためのセンサーが鈍っていることを意味しないか。
感情に蓋をするということは、気持ちを顧みようとせず、問答無用で心の声をシャットアウトする行為ではないのか。
センサーが鈍り、大切なものを見ようともしない人が、他者のそれらを見れるのか?
僕には到底そう出来るとは思えない。

なぜセンサーが鈍化して、感情を感知できなくなるのか。
それは、人の心の弱さに原因があるんじゃないかと思う。
誰もが一番自分が大切で、自分には優しく、甘くしたいんじゃないかと。
つまり、これは自分が一番楽になるように行動したいことの裏返しになってしまう。
日々の生活に追われ、
自分の都合のいい論理にだけ目を凝らし、
不都合な真実からを目を背ける。
これらは大切な自分を守るためであり、
人が元来持っている自己防衛本能とも言えるのかもしれない。
ただこれは、短期的に見れば、
一番楽な行為である一方で、
長期的な視点に立てば、
自分を最も傷つける行為にもなりかねない。

僕たちは、一人では生きておらず、社会の中で、
他者と関わりあって生きている。

嫌なものに蓋をするのは簡単だし、
意識していなければ、すぐに流されてしまうだろう。