仕事の意義は成長にある。
仕事と成長は、セットとして語られることが多い。経営者の書いた本や自己啓発本を読んでいると、必ず「仕事=給料をもらう」という当たり前の概念ではなく、「仕事=成長するもの」というマインド論に話がすり替えられがちだ。
確かに、仕事を通して成長することは沢山あるだろう。本屋に行けば、仕事論に関する書籍が多々置かれているように、仕事が成長に与える影響は計り知れないのかもしれない。
けれども、僕はこの風潮をとても気持ち悪く感じている。
本当に人は仕事でしか成長できないのだろうか?
それ以外に成長する方法はないのか?
「仕事=成長」が当然の心理であるように語られることに、違和感と宗教性に似た嫌悪感を感じた。
仕事は成長の十分条件ではあるけれど、必要条件ではない
僕自身、「仕事が成長するための唯一の手段」だと考えている時期があった。実際に仕事をしている中で、思考や行動がプラスに働く側面はあったけれど、よくよく考えると、必ずしも仕事でしか成長できないわけではないと気づいた。
「仕事=成長」が語られる理由として、仕事を通して、「様々な背景の異なる他者とのコミュニケーション力が磨かれる」「目標を達成しようとする過程で、論理的思考力や精神力が身につく」
といった側面を少なからず持っているからだと思う。
ただこの能力は、仕事以外でも身につく能力である。地域の集まりに参加したり、友人や恋人との交流が、仕事でのコミュニケーションと異なるとは到底思えない。それに、趣味や個人で副業をしている人だって、自分で目標を立てて努力していたりする。必ずしも、『仕事=成長』がセットで語られる必然性はないし、むしろ、仕事外での方が成長できるんじゃないかと思えてしまう。
仕事で大切なのは、自分進みたい方向を見定めるコト
例えば、僕はソフトウェアのエンジニアとして働いている。何か身に付けたい技術あった時、最も適した方法は仕事だろうか。一見、一番の近道に思えるかもしれないが、実際にはそうとも限らない。作りたいものがあって、プログラムをばりばり書きたいと思っていても、必ずしもその願いが叶うとは限らない。
プロジェクトの決定権を持っているのは、基本的には上司である。自分に決定権があればいいのかもしれないが、多くの場合、上から言われた通りに仕事を進める必要がある。それに毎日新鮮な刺激のある仕事をできるわけもないし、いつの間にかルーティンワークに収まってしまう可能性もある。自分の向かいたい場所と会社の向かいたい場所。両者のベクトルを合わせるのは結構難しいことなのだ。
プライベートの複業で、やりたい事をやってみよう
そうした方向合わせに時間を使うくらいなら、仕事後に個人で複業を行うのがいいだろう。個人でなら好き勝手にやりたいことができるし、失敗しても誰にも迷惑はかけない。自分の学びたい題材に沿って勉強を進めていけば、自分の能力を効率よく伸ばすことができるだろう。
結局のところ、仕事で成長できるかは、「自分と会社の方向性が合致しているか」が最も重要なんだと思う。「つまらない仕事でも、続けていればやりがいが出てきて成長できるんだよ」なんていうのは、悪魔の囁きに聞こえてしまう。
つまらない仕事は、やっぱりつまらない。それは、仕事がつまらないのではなくて、自分の向いている方向と仕事の方向性があっていないからだ。目的も方向も違う人たちに向けて語られる、「仕事で成長する」という言説。異なる人たちの多様性を認めずに、一般化して語られることに違和感を感じるのだろう。
最後に
「人は仕事によってのみ成長する」というのは、経営者にとって、非常に都合のいい論理である。そもそも成長したくない人は少ないだろうし、「成長」という人参をぶら下げることで、労働条件を覆い隠すことができる。残業代を出す必要があっても、「君の成長のための仕事だから」といった言い訳ができてしまう。結果として、労働者は、極めて不利な状況下に置かれることになってしまうのだ。
別に仕事に成長を求める必要なんてない
スキルや人間性を向上できる機会は、仕事以外にもたくさん見つけられる。それに、そもそも成長する必要性はあるのだろうか。
僕は特に意味はないと思っている。所詮、「成長したい」というのは、「人から認められたい」だとか「自分の内なる欲求を満たしたい」、という欲望を充足させるための、一つの手段でしかない。大切なのは、「成長を通じてどうしたいのか」といった、目的の方である。成長は目的を達成するための、一つの通過点なのだから。