仕事

会社員に向いている人とそうじゃない人 自分で決めたい人のジレンマ

“社会人”という言葉がある。

「もう社会人だから、できて当たり前」だとか、「社会人としての常識がないのでは?」だとか、会社員、いわゆるサラリーマンに向けて、よく使われているように感じる。

実際、僕自身も上司や同僚からこうした言葉を掛けられたコトがあるし、これから先”社会人”として上手くやっていけるのか、不安に感じた時期がある。

けれども、よくよく考えてみると、“社会人”とは一体何を指しているのだろうか?

辞書で調べてみると「社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人のことである」とある。
つまり、社会にいるすべての人を指していると。

それならば、赤ちゃんやおじいちゃんおばあちゃん、働いていないニートだって社会人なのではないか。

赤ちゃんに対して、きっと「社会人として、これくらいは」なんて誰も言わないだろう。
病気の人に対して、「社会人として、こんなコトも出来ないのか」ともきっと言わないはずだ。

もしかしたら、“社会人”という言葉は、”会社員”としての当たり前を、程よく押し付けるためにあるんじゃないかと最近考えるようになった。

“社会人”ではなく、”会社員”に向いていないだけなんじゃ?

“社会人”としての適性がない人は、”会社員”としての適性がないだけの可能性がある。

自分なりに、会社員に向いている人と向いていない人はどこが違うのかを考えてみた。

その結果僕が思いついた答えとしては、「あらゆるコトを自分で決定したい」と思っている人は会社員には向いてないんじゃないか?ということだ。

他にも、会社員に向いてない人を選別する要素は沢山あるだろう。
しかし少なくとも、「自分自身で決めたい」人は、会社員には向いていないと思う。

自分で決めたいという”欲望”

会社員は、あらゆるコトを自分自身で決められない。

やりたい仕事がすべて出来るわけではないし、好きな時間に出勤できるわけでもない。
給料は好きなだけもらえないし、転勤の要請には従わなければならない。

多くの事柄を会社によって、一方的に決定されてしまう。

“自分で好きなように決めたい”という人間にとって、これほど苦痛な事はない。

僕自身は、”自分で決めたい”人間で、特定のことに対するこだわりが強く、すぐに反発心を抱いてしまう。

ある程度裁量が与えられている場合には、多少コントロールできる範囲が増えるかもしれないけれど、限度がある。
それにもしも、すべての決定権が与えられるのであれば、それは会社員ではなく、経営者側の人間というコトにもなってしまう。

責任と自由は対立するものではない

これは別に、”すべてを自分で決定出来るのは素晴らしい”と言っているわけではない。

一見素晴らしいコトのように見える、“すべてを自己決定できる権利”は、”すべてを自分責任として受け入れなければならない”コトの裏返しでもあるからだ。

物事を決めるには、エネルギーが必要だ。

「今日の昼ごはんは何にしよう?」という些細な選択ですら、僕たちは意外とエネルギーを使っている。
だから、イチローやスティーブ・ジョブズのような偉人たちは、その選択で消耗しないように、出来る限り選択肢を失くそうとした。

毎日朝ごはんにはカレーを食べ、服は決めた数種類のシャツしか着ない。余計なコトを考えなくていいようにするために。

“何も自分で決めなくていい”状態は、気楽なものだ。

自分で考えなくていいなら、反発心も湧いてこない。
ただ黙って上の事に従っていればいいのだから。

どちらが良い悪いというのではない。
結局はその人次第であって、向き不向きの問題なのだろうと思う。

最後に

僕自身は、常にこの問題に悩まされている。

会社員として働いているけれど、自分で決定したいという意志は胸の中で渦巻いている。
そのため、会社員として求められる”従順な社員”になれという要請に対して、素直に従うことができない。

このブログを書いているのも、その性格の一つの表れであって、文字で自身の意見を表現し、誰かに受けいれて欲しいという欲望があるからに他ならない。

会社の看板を背負った上での自分ではなく、何物にも頼らない自分自身をさらけ出すコトで、誰かの役に立ちたい。

自分の知らない所で物事が進んでいることがどうしても納得できない。

きっとやはり僕は会社員には向いていないのだろうと思う。