仕事

「規則に縛られる生活」は息苦しい

毎日同じ時間に、同じ場所に通勤する。

普通と言われればそれまでだけど、僕にとっては非常に辛いことだった

体調が悪くても、出社時間は簡単にずらせないし、一番混雑する時間帯の満員電車に乗るだけで、一つの仕事を終えたような気分だった。
精神や体力が消耗するのは勿論のこと、加えて、「いつも同じ場所、同じ時間に出社しなさい」という「規則」に窮屈さを感じていた。

縛られない生活

過去を振り返ると、「何かに縛られる」という環境は自分には向いていなかった気がする。

思えば、一番居心地がよかったのは大学時代だった。
授業や部活動には入っていても、行きたくなければいかなければいい。
中学や高校のように、監視する目がないので、すべては本人次第だ。

すべての責任は自分にあるし、責任はあれども、「こうしなければならない」という縛りみたいなものから解放された自由が、そこにはあった。

「規則正しい」生活が出来るのは、ある種の才能だと思う。

朝は7時に起きて、9時には出社する。12時には昼食を食べ、定時になれば退社する。
体調が悪くても、お腹が減っていなくても、「決められた時間に決められたコト」をしなければならないという生活。

怠惰な自分にとっては、それを苦痛を感じず、平然と過ごせる人達のことを心の底から尊敬している。

“規則正しい”生活は、”当たり前”だという呪い

ただ、本当にその「規則正しい生活」は、自分の意志に沿ったものなのだろうか?

いつの間にか、苦痛が快楽に変わってはいないか?

という気持ちも同時に持っている。

人間は、ある一定の苦痛を受けると、辛さから逃げるために感情を抑制し始める。
さらにその状況が続くと、快楽にすら感じてしまう。

例えば、残業がそうだ。
数十時間の残業は辛くても、ある一定の時間を超えると苦痛が快楽へと変化する。感覚は麻痺し、当たり前のものへと変貌してしまうのだ。

周囲に合わせ、規則に沿った生活をしている内に、「苦しかった規則正しい生活」は「当たり前の生活」へと変わる。

これは、「規則正しい生活=時間通り」で定められた生活を過ごすコトを意味する。

決められた時間を守り、時間に支配される生活。
それは、心に余裕のある、ゆとりある暮らしを僕たちに与えてくれるのだろうか。
いつの間にか、生きるために働くのではなく、「働くために生きる」状態になっていないだろうか。

忙しさにかまけていると、「自分は時間をコントロール」していると錯覚するようになる。
けれども、実はその反対になっているケースは多々ある。
定期的に、生活を見直すコトが大切なんだろうな。

最後に

果たしてその「規則正しい生活」は、自分の意志によるものなのか。

朝は決まった時間に起きなければならない。食べ物は身体に良い物を食べなければならない。
自分がしたくてそうしているなら別に問題はない。
けれども、自分はしたくないのに、「周囲の空気」という圧力によって、あなたの行動が変えられているなら、それはきっと息苦しいものになる。理想である健康的な生活は、ストレスまみれの不健康な生活に成り下がるだろう。

自分はどのような生活をしていきたいのか。周囲に流されず、自らの意志で決定していける強さを持ちたいものだ。