ブログ・文章

書くことは考えること。なぜ文章を書くのか。

文章が読めて、書けること。振り返ってみると僕はそれらに大きく助けられていたことに気づいた。

文章を書けるのはどんな人?

もともと、文章を「書くようなタイプ」ではないなと思っていた。

僕が「書くタイプ」として思い描くのは、作文コンクールで入選したとか、書きたいことが溢れ出してくるとか、音楽や映画のレビューが特別面白いとか、何かしらの問題意識や文章力、伝えたい何かがあるような人たちのことだ。

一方で自分にはそれほど伝えたいと情熱を傾けられるような事柄はないし、読書感想文は大の苦手。将来ブログを書くことになるなんて、想像もできなかったし、文章が多少なりともかけるようになるとも思えなかった。

伝えたいことがなくたって構わない

ただ学生時代から、文章を「読む」ことは好きだった。大学時代に友人の影響で本を読むようになった。古本屋に通い、大学の図書館に引きこもり、大量の本を浴びるように読んだ。共感できるような文章に出会うと嬉しくなる。一方で心のこもっていない文章を読むと、乏しい気持ちになる。文章に気持ちが動かされ、いつの間にかその虜となっていた。

僕には自分自身の中に伝えたい思いが、ほとんどない。けれども、誰かの言葉やいいなと思った考え方や人生を他人と共有したいという気持ちだけはあった。そんな思いが、ブログを始めるきっかけとなった。

成長記録としてのブログ

ブログを書くうちに、「なぜ書くのか」の理由が変わってきたような気がする。もちろん他人の素晴らしい考えや言葉を伝えたいという気持ちは残っている。ただ、最近は自身の成長記録としてブログを書きたいという想いが強くなっている。

自身という枠組みを通過することで、取り込んだ考えや言葉はどのように変化するのか。自身というフィルターはどのように世界の色彩や形状を捉えているのだろうか。書くことを通じて、その過程を記録することに魅力を感じるようになった。

”今”は一瞬しかなくて、”今”感じた想いはその時を過ぎると風化してしまう。”今”を切り取って、文章という記録に残すことを通じて、自身を知る。おざなりにしがちな、感情を知る手がかりになると思うようになった。

”書くこと”は意志を形にする行為

日刊イトイ新聞で「おとなの小論文教室」を運営されている山田ズーニーさんは、文章を書く必要性を次のように語っている。

人は、どんなに幼くても、あの人ともこの人とも違う、何かを自分の中に持っている。
体内の感覚や意志を、掘り起こし、形にし、外界に問うてみるまで、自分の中のものが、ひん曲がっていると言われるか、素敵だと言われるかは、わからない。
“なんとなく”で生きるということは、自分の中にあるものと向き合わないことだ。
他人の言うことを仕入れては、切り分けて、外に出す。そんな受け売りを繰り返していると、自分の内面と、行動が離れていく。自分が、外界と関わっていることにならない。
だから、考えることを通して、自分の内面を顕在化できないとき、人は静かに傷ついていくのだ。

受け売りの言葉ではなく、自分の言葉で「書くこと」を通じて体内の意思を確認し、初めて形にできる。その繰り返しは自分を形成し、感性を養っていくことにも繋がるのだと思う。

文章は別にうまくなくても、誰かに向けたものでなくても、自己満足であってもいい。ただ思いを綴ることで、ちらばっていた破片が繋がって、実体が浮かび上がってくることがある。

もしかしたら、自分の知らない部分を発見するきっかけになるかもしれない。

最後に

毎日何も変わらないと思っていても、時は流れ、寿命は刻一刻と削られている。「人生=時間」である以上、代わり映えのしない日常も知らずしらずのうちに変化しているものだ。

その時感じた気持ちは、二度と戻ってはこない。次の感情にかき消されて、消え失せてしまう。

書くことは、そうした消えゆく軌跡を書き留めておくための重要なプロセスとして機能する。たわいもない自分のあれやこれやを書くなんて、無駄でつまらない。そう思わずに、それこそが大切なのだと思って、書き続けていきたい。