テレビで活躍している芸能人や歌手たちは、僕たち一般人にとって憧れの的です。
あんな人になりたい、いつかはテレビに出てみたい。
子どもの頃はそう思っていましたし、尊敬の眼差しでみていました。
大歓声の中、ステージで歌うのは気持ちいいだろうなーとか、自分のトークでスタジオを爆笑の渦に包めたらなーと思って。
そんな有名人の一人に、ロンドンブーツ1号2号の”田村淳”がいます。
以前から抱いていたイメージとしては、”遊び人”、”だらしない”、”へらへらしている”といったネガティブなものが大方を占めていました。
みなさんも同様の思いを抱いておられるかもしれません。
本書『日本人失格』を手に取ったのも、「本×田村淳」の組み合わせに違和感を感じたことが理由の一つです。
話し上手で頭の回転がいい人だとは感じていたけれども、不真面目なイメージから本を書くような人物に思えなかったからです。
それにどうせ「女性の落とし方」とか、「人生はのらりくらり適当に生きていったらいい」的なゆるーい内容ばかりだろうとも思っていた次第です。
しかし実際、中身を読んでみると「なんて思い違いをしていたんだ」と180度イメージが逆転するほどの素晴らしい内容でした。
好きなことをやりつづけ、テレビ以外にも活躍の幅を広げる知恵と行動力。
なぜそんな生き方が出来るのだろう。
その理由を垣間見ることの出来る一冊になっています。
この記事では、以下の3点を中心にご紹介していきます。
- 突き抜けるためには”人と異なる”こと
- “一隅を照らす”生き方
- 自分を知るために”個”を磨く
縦社会の息苦しさ
一見華々しく思われる芸能界に身を置いている田村さん。
さぞかし充実した不満のない人生を送っているのだろうと思っていましたが、そうではないと言います。
30代になって、急に芸能界に対して息苦しさを感じるようになったのだとか。
理由は芸能界が「村社会」であることに気づいてしまったからです。
なんだかんだ言っても、芸能界は縦社会。
サラリーマンの社内政治のように、大御所の意見には従わなければいけないとか、しきたり通りに行動しないと仕事がしづらくなるとか、面倒なことが多々あるのです。
そんな暗黙のルールを、すんなりと「はい、そうですか」と受け入れられる人はそれでいいのでしょう。
言われたコトに従がっていれば、仕事もしやすく立ち回りやすいというのは往々にしてあります。
とは言え、どうしても反抗的な想いを抱き、反発したくなってしまう性分の人間もいます。
それが田村さんでした。
突き抜けるためには、”人と違うこと”をする
やっぱ芸能界って、犯罪はもってのほかだけど、ときにはモラルを逸脱してでも、一般の人ではマネできないことをガンガンやり続け、世間から浮いた存在でなければいけないはず。(省略)
動物園で言えば、今まで見たこともないような珍獣や猛獣の檻の前にお客さんは集まってくるわけで、どこでもいつでも見られるニワトリやハトの籠にはだれも近づかない
他の人が躊躇するようなコトを進んでやる猛獣になること。
周囲に迎合せず、自分の意志を貫き通すことで、「あいつは面白いな」とか「もっと応援してあげたい」という人が現れてきます。
口で言うのは簡単だけれども、実際行動に移すのはとても難しい。
自分の意志を主張するということは、批判される事もあるし、理解してもらえないことも出てきます。
それでもまっすぐに自分の行きたい方向に突き進めれば、田村さんのように突き抜けることが出来るのかもしれません。
このように第一章では、「芸能界で生きづらさ」を感じるようになった理由や、自らの芸人論が語られていきます。
続く2章では「サラリーマンの窮屈さ」の原因は何なのかを芸人の立場から分析している格好です。
3章では”田村淳”の幼少時代から現在に至るまでの過程、つまりルーツに迫るお話しが続きます。
ここでは詳しく紹介しませんが、さすが芸能界で最前線を走ってきた人物だと感じる部分がありました。
考え方の視点や行動の原動力など、「こんな考え方を子どもの時から普通するか?」と驚いてしまう内容も多かったです。
いかに振る舞えば大人に好かれるかがわかっていた学生時代。
女性に好かれる、あるいは男の先輩に可愛がられるためにはどうすればいいか。
常に自分を俯瞰することができ、当時から処世術には長けていたそうです。
また児童会長に立候補したり学習塾やソフトボール、習字など多数の習いごとも行っていた秀才っぷり。
意外な一面がたくさん書かれていますし、詳細はぜひ本書で確認してもらえればと思います。
人に振り回されない生き方
本の前半では上述してきたように、
- もっとこうしたらいいのに
- なんでこんなに窮屈なのか
田村さんの自らの抱えている想いについて語られている文章が多いです。
それに対して後半では
- 俺はこうした考え方で生きている
- もっとみんなも楽しく生きようよ
といった”生き方論”が展開されていく格好。
特に印象に残ったのは“一隅を照らす”という”田村淳”の生き方に対するポリシーです。
この『一隅を照らす』というのは、
天台宗の開祖である、平安時代の僧侶である”最澄”が残した言葉であり、具体的には、「天台法華宗年分学生式(てんだいほっけしゅうねんがくしょうしき)」という上奏文に載っているもの
になります。簡単に言うと、
「自分自身が置かれた場所で精一杯頑張っていれば、明るく輝いた人になっていき、何ものにも代えがたい国の宝となる。そして、そんな人がひとり、またひとりと増えていくことで、個々の場が明るくなり、やがては日本を、世界を、そして地球をも照らしだす」
というのです。
現代の日本では、なんとなく閉塞感が漂っているように感じます。
経済は成長しないだとか、子どもが生まれないとか、一生働かなくてはいけないとか不安要素は山ずみです。
考えると暗くなるけれども、『一隅を照らす』の言葉通りだとすれば、みんなが頑張っていれば、いずれ場が明るくなり、”日本の未来は明るい”ということになります。
もしかしたら今の僕たちにとって、何か大切なことを伝えてくれている言葉ではないかと思うのです。
自分が”何者”かを知ること
また一方で、田村的『一隅を照らす』の解釈もあるのでご紹介しておきます。
まずは自分が”何者”であるかを知ること。
まだなんの実績もないとか、成し遂げたものがないから、自分が”何者”であるかわからない、と思う必要はない。
ここでいう”何者”は、自分は何が好きか嫌いか、どういうことに感動するか、泣くか、怒るか、許せないか、あるいは、ズルイか、セコイか、しっかりしてるか、だらしないか、エロイか・・・そんなことでもいい。
とにかく自分がどんな人間かを、良いところ悪いところ、丸ごと含めて認識することだ。
そしてその中でも、絶対に変えたくない、譲れない自分の”核”みたいなものをはっきりさせる。
この”核”は触れられると怒ったり、悲しくて泣いたり、好きで好きでたまらないみたいな、感情的になってどうしようもない部分と思えば分かりやすいかな。
そうして、自分の”個”を認識し、その”個”を磨くことによって、自分のやりたいこと、やれること、やらなければいけないことも見えてくる。
それらに必死こいて取り組んでいるうちに、人は明るく輝き『一隅を照らす』ことになる
“何者”でもない自分。
特に若ければ若いほど、その想いは顕著に現れてくるのかもしれません。
僕自身20代半ばになった今でも、“何も成し遂げていない自分”に対して不安になることがあります。
自分がどんな人間なのか。
一体何をしている時が楽しくて、どんな風になりたいのか。
自分のことを考える機会は、多いようで意外と少ないです。
そのため、自分のことは案外よくわからないものです。
考えれば考えるほどわからくなっていき、結局”わからない”という結論に辿りつくのがいつものパターン。
“こんなことではダメだ”と思ってはいたけれども、別に「それでいいんじゃない」と考えられるようになったのは一つの収穫だったように思います。
本書では、”田村淳”の生き方が詰まっている一冊です。
今まで興味がなかった、嫌いだったという人でも、本書を読めばイメージは180度変わるに違いありません。
普段テレビで見る姿とは、一味違った”田村淳”を知ることの出来る刺激的な一冊です。