仕事

言わなければ伝わらない? 察してくれよという傲慢さが生み出すもの 

「言わなくてもわかるだろ!」
「なんで言われなきゃわからないんだ!」

職場でよく耳にする言葉たちだ。

上司や先輩が後輩に対して、投げかけている光景が目に浮ぶ。

何も言わずに部下が動いてくれるなら、これほど楽なことはない。

実際すべての仕事で指示を出すなんて不可能に近いだろうし、指示なんてなくても察してくれよという人の気持ちも分かる。

でも僕は、この光景を見ていてなんだか違うよな~、という違和感が拭えないでいる。

「指示されないと分からないから、部下は失敗したんだよ~」

いつも部下のせいばかりにする上司に対して、自分を基準にした常識の押しつけのようなものを感じてしまうんです。

僕自身は指示を出す側に立つことが多いので、彼らの言い分はよくわかる。
「これくらいは分かるだろう?」
「相手の気持ちを察しろよ」

僕自身これらが得意なものだから、なぜこんなコトも出来ないのだと、以前はよく理解できなかった。

けれども、海外旅行にいって考え方を改めた。
コミュニケーションは伝えなければ決して伝わらない。
こちらの思いは必ずズレるということを。

コミュニケーションはずれる

日本で過ごしていると、相手は似たような環境で育ち、同じ言語を話せる人たちだという、共通認識の上でコミュニケーションが発生してしまう。

たしかに、使う言語は同じだけれど、実際には一人ひとりの育った環境はまったく違う。バックボーンが異なっているんですね。

お金持ちの家に生まれた、小さい頃から習い事をしていた、身内に有名人がいた。

そうした環境の組み合わせが、性格や特性を形づくっていくんです。

なので、本来であればまったく自分とは価値観や考え方が異なる他者として接するべきなんですね。

そもそも「コミュニケーションはズレない」という前提が間違っている。
先ほどの前提で物事を考えてみると、こちらの方がしっくりくるんじゃないだろうか。

ビジネスで発生するズレを減らすためには、いかに”物事を明確に示すか”が重要だと考えるようになった。
「だいたい」、「これくらい」、「あと少しで」

そうした曖昧な言葉を使う場面を限定することで、コミュニケーションのズレが少なくなり、ミスが出にくくなった。
それにもし、伝えたいことが正確に伝わっていないかな?と感じたら、
ズレを明確にして修正することも出来る。

お互いが思い描く”これくらい”を排除することで無駄なトラブルを未然に防ぐコトが出来る。

口に出すのは簡単だけれど、意識して取り組むのは非常に難しいと感じている。

分かっていても、簡単には出来ない

例えば先日、以下のような場面に遭遇した。

A:「君って以前にこの案件やったコトある?」

僕:「はい、以前にやったことありますよ。プログラムをこのように修正して、提出すれば問題なく解決できると思いますよ。」

A:「ああ、ありがとう。助かったよ」

僕:「いえいえ、お役に立ててよかったです。また協力できる部分があればお手伝いしますので、言ってください」

この後、仕事の認識が異なっているのが発覚した。
Aは僕に仕事を相談したことで、僕が主導で仕事を進めてくれていると考えていたみたいだ。

一方の僕としては、あくまで相談に乗るだけであって、進めるのはAだ。
聞かれた質問に答えれば大丈夫ぐらいに捉えていた。

これは別にどちらが正しくて、どちらが間違っているという話ではない。
「仕事の期限を明確にしない」、「責任の所在を明らかにしない」ことによって発生したミスだ。
お互いが気を遣ったことで、あいまいなコミュニケーションが生まれてしまったのだ。

ここで学んだコトは、「相手への気遣いがミスを生む」ということである。

意思疎通を図るコトがコミュニケーションの目的

海外においては、曖昧な表現からは必ずと言っていいほど誤解が生まれる。

レストランに入れば、ウェイターは呼ばないと出てこないし、
タクシーに乗れば料金の交渉をしなくてはならないこともある。

日本を基準にすれば、”当たり前”とは言えない状況に遭遇する機会は多々あって、理解できないものに対しては、お互いの意見や考えを主張して、意思疎通を図る必要があるのだ。

これは別に日本の文化を否定している訳ではない。

”空気を読む”という言葉に代表されるように、暗黙の了解で形成されるコミュニケーションは無駄を省いた優れた意思疎通の一つだ。相手の気持ちを察して、意志のやり取りが出来るのは、素晴らしいと思う。

ただ場面によっては、空気を読むようなやり方では窮屈だとも思う。

物事をハッキリさせたい時に、お互いの気持ちを察し合うようなコミュニケーションは、時に誤解を生み、自由な発言を阻害してしまう。

意見はあくまで意見であり、意思疎通のための手段でしかない。

相手を気遣って構成される人間関係の弱点にも、目を向けておきたいものだ。

最後に

自分の考えがなんとなくで伝われば、どれだけ楽だろうと僕は思う。

けれどもお互いが共通認識の上に立っていることは稀であり、
まずはその事実を認識することが大切なんだと思う。

もしかしたら、ゆとり世代、団塊の世代と言われるような世代間格差よりも、このズレは大きい可能性がある。

であるならば、「相手のコトを分からないやつだ」と拒否するのではなく、どんな思考を持っていて、どうすればよりよりコミュニケーションが図れるかを考えるべきなんだと思う。

多様化が進めば、より意思疎通は難しくなるだろう。

今後は世界中から移民がくるだろうし、異文化が混入してくる可能性が高い。
そうなったときには、曖昧で済ませられる日本独自の文化は通用しなくなるかもしれない。

コミュニケーションとは、そもそも何のために取るのだろう。
相手に自分の考えを伝えるため、あるいは意思疎通を図るためだろうか?

だとすれば、目的のためには手段を選ぶべきではない。

通じないのであれば、通じるようにするしかない。
常識だとか、当たり前という言葉で突き返したところで、伝わっていない事実は変わらないのだから。