自由を手に入れるために必要なもの。
お金、時間、地位、名誉。
月並みな回答が並んだけれど、僕はこんなものでは”自由”にはなれないんじゃないかと思っている。
それらはどれも、手に入れた後に失ってしまう可能性をはらんでいる。
周囲の環境や状況によって、簡単に無くなってしまうかもしれない、脆く儚いもの。
では、”失われなくて”かつ”自由”を手に入れるための手段になりうるものはなんなのか。
その答えの一つが”表現力”なんじゃないかと僕は思う。
表現力は”自由”の源だ
誰もが他者とのやりとりの中で、日々の生活を送っているよね。
親子の会話、仕事のやりとり、メールでのやりとりなんかを通じて。
僕たちの生活にコミュニケーションは不可欠で、なくてはならないものだ。
そのやりとりを支えるもの、それが”表現力”なんじゃないかな。
表現力のある人は、”自由”だ。
自分の気持ちを表現できるだけで、生きやすさは段違いになる。
例えば、離れている友人との関係を続けたいとき。
本当は会いたいし、今後も繋がっていたいのに、自分の思いを正確に表現することができない。
次第に連絡は疎遠になり、いつしか一生会うこともないのでは?といった距離感を感じてしまう。そんな感覚に陥っている人は、多いんじゃないかな?
メールで気持ちを伝えるにしても、言葉の選択一つで、文章の色はまったく異なる色に変化する。
自由自在に操ることができない文章は、時に他者を傷つけ、思ってもみないような結果を生んでしまうこともあるのだ。
もし、自由に言葉を操ることができて、自分の想いを他者に伝えられるならどうだろう。
もっと自信を持って未来に突き進んでいけるんじゃないだろうか。
遠くにいたとしても距離は近く、はたまた未知の領域に足を踏み入れた際にも、自分の言葉一つで
問題を解決できる勇気が持てるんじゃないだろうか。
表現力には、そんな底知れない力があると僕は思う。
表現力の鍛え方
ではどうすれば、そんな力が身につくのか。
その答えは、”表現することから逃げないこと”に尽きるんじゃないかと思う。
言葉に出して表現する機会なんてないよ。
私にはそんなことできっこない。
文章が書けない自分には無理だ。
そんな言い訳を免罪符にして、逃げてはいないだろうか。
誰だって失敗するのは怖いし、不安だ。
傷つけられるかもしれないし、想いは相手に届かないかもしれない。
ならば言い訳にしやすいものを盾に、逃げてしまおう。
そんな気分になるかもしれない。
人間はそれほど強くはないし、時には後ろを向いたって構わないとは思う。
でも少しでも自由になりたいなら、表現力を磨きたいなら、拙くても、たどたどしくても、自分の言葉を伝えることから目を背けてはいけない。
諦めちゃだめだ。
表現力を磨くには、積み重ねること
僕が新卒の頃、商社の営業マンとして働いていた。
人見知りで、声の小さい僕は上司や取引先から
「もっと声ださんかい」
「もっと自分から相手に飛び込んでいけ」
そんな風に、毎日怒られていました。
もちろん自分が営業に向いていないのは、百も承知だったし、このまま辞めてしまおうかと毎日考えていた。
でもどうせ辞めるなら、やれることをやって、ダメなら諦めよう。
そんな捨て身の気持ちで営業に取り組んだ。
知らない企業に飛び込み訪問しては断られたし、「声が小さい。やる気ないなら帰れ」と訪問先で怒鳴られたこともある。
飲み会では上手く立ち回れなかったし、プレゼンでは声が吃ってしまい固まってしまったこともあった。
ただ僕が一つだけ心に決めていたことは、「逃げないこと」
自分の想いを伝えることだった。
ダメなりに表現する。
少しずつでも悪い部分を修正して、積み重ねる。
人と比べず、昨日の自分と比べ、一歩一歩着実に進むこと。
凡人にできる精一杯の勝ち筋だ。
その結果どうなったか。
僕は多少のコミュニケーション能力と言葉に出して伝える能力を手に入れることができたのだ。
アウトプットの場数が、勝負の決め手
これは別にセンスではない。元々の能力でもなければ、文系理系の差でもない。
単にアウトプットの場数の違いに過ぎないんです。
ほぼ日刊イトイ新聞で投稿を重ねる、「山田ズーニー」さんは次のように語っている。
表現力のある人は、生活か、趣味か、仕事か、研究か、人生のどこか、何かで、自分の内面を表現したり、人に伝えたり、
アウトプットの場数を踏んで、表現力を鍛えている。
表現する機会がなく、継続的な営みもなく、いきなりできる人がいるなら教えてほしい。
そんな人はいはしない。だから自分の思いを言葉で表現できるようにするには、とにも、かくにも、アウトプットだ。
自分の想いを言葉にする。人に話す。文章に書く。発信する。汗をかく。恥をかく。
「お勉強」はもういい。
いつまで、スケートのビデオを眺めて、いつか滑れる、みたいなことをやりつづけるのか?
参考文献:おとなの小論文教室 p134
子供の頃、みんな始めは自転車に乗れなかったんじゃないかな。
でも練習を積めば、いつの間にか補助輪なし乗れるようになった。
何度もこけて失敗を積み重ねながら、ペダルを前へ前へと漕ぎ進める。
小さな一歩が次第に、大きな一歩へと繋がっていくのです。
机の上で勉強していたって、自転車に乗れるようにならない。
本を読んで理屈を理解したって、それは机上の空論に過ぎない。
上達したければ、とにかくやってみること。実践してみることに尽きる。
表現力も同じで、アウトプットを出し続けるしかない。
続けていれば、いつの間にかあなたの表現力は見違えるほど上達することになるだろう。
最後に
表現は人を自由にする。
このブログだってそうだ。
ただ心のうちに留めておくだけではすっきりしない気持ちをアウトプットすることで、”言葉”として形あるものにできる。
そうすることで、心のモヤモヤは整理され、なんとも言えない気持ち悪さから逃れられるのです。
そして、言葉にする利点は、名前も顔も知らない読者である”あなた”が読んでくれることだと痛切に感じている。
もしかしたら僕の文章を読んで、多少なりとも共感してくれたり、「読んでよかった」と思ってくれる人がいるかもしれない。
そんな想像をすることで、”自分という存在”が外に開かれた存在であって、誰かの役に立っていると感じることができるんです。
「自分の想いを表現する=誰かの元へと届く」
届いた想いは、巡り巡って自分自身を自由にする。
そんな風に僕は思っている。