「ブラック企業かどうかは、その企業を判断する個人次第である。」
このような、
ブラックを企業の問題ではなく、個人の判断に委ねようとする考え方がある。
激務で残業まみれの会社があったとする。
その会社は、「残業なんてしたくないし、早く帰ってのんびり過ごしたい」という人にとっては、ブラック企業かもしれないが、
「スキルを高めたい」「もっとやりがいのある仕事をしたい」という人にとっては、適した環境であるとも言えるだろう。
結局、それぞれが何を求めるかによって、企業はブラックにもなり、ホワイトにもなる。
「個人に判断を委ねるべきだ」という言説は、こうした背景によって、正論として表舞台を席巻している。
激務=ブラック企業なのか?
この意見は、一見正しいように思える。
しかし、僕は一抹の疑問を感じ得ずにはいられない。
たしかに激務である代わりに、仕事のスキルが身につく会社はあるし、給料以上の価値を提供してくれる会社は存在する。
僕自身も、以前働いていた会社は、様々な経験をする機会を与えてくれたり、人材育成の制度が整っていたりと、沢山の恩恵を受けていたこともある。
こうした会社は、客観的に見れば、ブラック企業の素養は持っているかもしれないけれど、”ブラック企業”という括りに入れてしまうのは納得いかない面がある。
その意見を認めてしまうと、ブラック企業問題が個人の問題になってしまう危険性はないか?
ただ一方で、こうした企業を”ブラック企業ではない”、”働く人の感じ方、考え方の問題だ”と個人に判断を帰結してしまうのは、危険なんじゃないかとも思う。
なぜなら、個人よりも企業側にとって、事が有利に運ばれる可能性が高いからだ。
そもそも、企業と個人では、圧倒的に企業の立場が強い。
法的には対等な関係とは言った所で、実際には労働者は意見を口に出来ず、会社の方針に従うしかないことも多い。
個人の意見は、”本当に”その人の意見なのか?
例えば、一時期世間を賑わした飲食店では、「仕事はやりがいがすべてだ」「人の役に立つことが君たちの目標である」といった、目標が掲げられていた。
働いていた従業員たちは当初、「本当にそうなのか?」といった疑問を抱いても、時間を拘束され、厳しい環境に身を置かれることで、正常な判断を失くしていった。
その結果、企業の理想や夢が、個人の目標と夢にすり替わるという現象が起こってしまったのだ。
これは特殊な例じゃないか?、という方もおられるかもしれない。
しかし、これは誰にでも起こりうることであり、僕たちが同じ立場に置かれれば、同様の状態になってもおかしくないのである。
なればこそ、企業側が、「うちの従業員は、夢を持ってやりがいを感じ仕事をしていますよ。ブラック企業だなんてとんでもない」といったところで、当人が本当にそう思っているかは、怪しい。
言わば、教祖が信者にマインドコントロールを掛けているのに、「彼らは自分意思で行動していますよ」と語るような欺瞞に満ちたものが、そこにはある。
僕は企業よりも、立場の弱い従業員こそが守られるような、世の中になって欲しいと思っている。
そして、違法な残業がまかり通り、やりがいや夢を隠れ蓑にして、従業員の意思をコントロールするのは、許すべきではないし、真っ当な経営をしている企業が報われるようになって頂きたい。
守るべきルールの中で競争する。
社会のルールに従わない企業の存在は、認めてはならないと思う。