- 人間は”消費”から”労働”を始めた
- 給料は”生産”する側より“管理”する側の方が高い
- “働く”ことに対する違和感やモヤモヤが晴れる
生物は消費せずに、生きていくことができません。
人類史的に見ても、人間は周囲の木の実や果物といった、ありものを食べて生活していました。
ライオンはシマウマを捕食し、サメはイワシを食べて命を繋ぐ。
いつも自然の中に存在する「ありもの」を消費して生きてきたワケです。
それは、その場の空腹を満たすための刹那的な消費であり、未来に向けた食の保存は目的としていません。
しかし、現代の人間の暮らしは長期的な視点に立ったものとなっています。
食料を手に入れるために、飼料を育てたり、交配させたりして、食料をコントロールします。
安定した食料を供給できるシステムを構築するすることで、飢えることから身を守り、生きていく術を確保しようとしました。
その結果、人間は”労働”を行うようになった……のかもしれません。
ではそもそも、なぜ食料の確保しようとしたのか?
それは、自然環境からの食料が足りなくなった。
つまり、“人間が消費する量が自然から与えられる贈与分を超えてしまったから”です。
人口が増え、消費が拡大し続けることによって、”消費するためのものを作る“必要が出てきたからなのです。
人間は”労働”から”消費”を始めたわけではありません。
“消費”から”労働”を始めたわけです。
現代で信仰されている、”働いて物をたくさん消費しよう“というスローガン。
これは、本来倒錯した呼びかけなのかもしれません。
内田樹著 『困難な成熟』
そのような”労働とは何なのだろうか?
という根本に迫った本、『困難な成熟』を読みました。
実際には、”労働”に関するトピックは本書の一部に過ぎないのですが、今回は焦点を当ててご紹介していきたいと思います。
この本で取り上げられているのは、速攻性のある処方箋ではなく、長期的視座を獲得するための技術です。
第1章では「社会の中で生きること」という表題の中で、”責任”について述べられています。
「責任を取るコトは誰にも出来ない」というのが著者の結論なのですが、その答えに辿りつくまでのロジックは、今の社会に照らし合わせると納得いくことと思います。
第2章は、「働くということ」で”労働の本質”に迫り、3章では「与えるということ」で、贈与とは何かが考察されていきます。
その後、「伝えるということ」「この国で生きるということ」という表題が続いていく次第。
一見、堅苦しい内容ばかりで読みづらいんじゃない?
と思われるかもしれませんが、全くそんな事はありません。
淡々と語られる文章は耳に心地よく入っていきます。
難しい内容でも、易しくかみ砕いて説明されているため、自分でも理解しながら読み進めることが出来ました。
何となく心に引っかかりを持ちながら過ごしている人や、知恵が欲しい方にも、ぜひともおすすめしたい1冊です。
労働の目的は”消費”することにある
私たちが日々の労働に抱く感情は一体どのようなものでしょうか?
「仕事が楽しくてしょうがない」というハッピーな気持ち、あるいは「仕事に行きたくないな~」というネガティブな気持ち。
どちらでしょう?
労働はそもそも”安定的に消費すること“を目的として始まりました。
“安定的に”というのが重要で、たまに食料が取れることがあれば、飢えてしまうこともあるというんじゃ困る。
安心して生きるためには、確実に食料が得られる”保証”が必要だからです。
労働の本質は”生産”ではなく”制御”
そこで、人間は自然を制御して思うがままにしてやろうと考えました。
自然からの贈与は人間の側の都合では制御できない、だったら自然の恵みを人為によって制御しよう、そう思ったところから労働が始まりました。
労働の本質は自然の恵みを人為によって制御することです。
参考文献:『困難な成熟』P95
つまり、人の営みの本質は”生産”ではなく”制御”だということになります。
生産によって豊かな社会を描くコトではなく、生産を”管理“することが肝になっている。
これは会社に置き換えると分かりやすくて、多くの会社では「生産部門」と「管理部門」の2つが存在しています。
水と油のように、お互いが反発している会社は多いです。
生産部門から見れば、管理部門の連中は「役に立つ物を作らず、無駄な会議をして、時間を浪費している」という風に映るでしょう。
一方管理部門からすれば、「管理されることなく、自分たちでしっかり仕事しろよ」という風に映るのではないでしょうか。
けれども、この指摘は「労働の本質を見誤ったもの」だと著者は言います。
申し訳ないけれど、これは労働の本質を見誤った発言だと言わねばなりません。
だって、語の本当の意味での「労働」をしているのは、何も作らない管理部門の方々なのですから。
それは彼らの仕事の本質が「制御」だからです。
参考文献:『困難な成熟』P96
私たちの大多数は、管理され制御された状態で労働を行っているということなのですね。
人間は生産することではなく”制御”されることで疲弊する
では、なぜ私たちは
- 仕事を楽しんでいる人
- 仕事に疲れている人
に分かれてしまうのでしょう。
みなさんの疲労の原因は「どうしてこんな意味のない会議を何時間もやるんだよ」とか
「どうしてこんなどうでもいいことをぐだぐだ書いた書類を期日までに提出しなければいけないんだよ」というタイプのものではないんですか?
「価値のあるものをたくさん作ってください」という要請に僕たちは疲れることはありません。
僕らが疲れるのは「こういうスペック通りの価値あるものを、いついつまでに納品するように、遅れたらペナルティを課すからね」というタイプの要請に追い立てられている時です。
人間は生産することに疲れるのではなく、制御されることにつかれるのです。
参考文献:『困難な成熟』P97
たしかに、仕事をして疲れる時というのは、納期に追い立てられたり、他者に「やらされている」と感じているときが多いです。
一方で、「自分でやってやろう」という気持ちで仕事をしている時、あるいは創意工夫ができて、人の役に立っていると感じている時にはそれほど疲労感はありません。
まして、高揚感すら感じることもあります。
ならば、制御されずに仕事できるのが理想ですよね。
でも社会の構造を見てみると、そう簡単な話ではないのです。
「生産する側 = 給料低い」「管理する側 = 給料高い」
人間が労働を始めたのは、衣食住の資源を「豊かに」享受するためではありません。
「安定的に」享受するためです。
だから、衣服ひとつをとっても、それを実際に自然の動植物から取り出して、織ったり編んだりして、「着られるもの」を作る「生産する人」より、デザインを考えたり、工程管理をしたり、流通コストの削減案を考える「制御する人」の方が何十倍、何百倍ものサラリーをもらうことになります。
現代の生産構造では、「無から有」を作り出すような労働をする人々が最下層に格付けされ、
何も作らず、ただ「ありもの」を右へやったり左へやったりするだけの人が最上位に格付けされている。
人間が求めたものは、システムの安定であって、生産することではありません。
ですので、管理する側が重要だと位置づけられ、そうでないものは下位に位置づけられるということです。
本書ではこの後、ではどうすれば”自分にとって一番適した労働”ができるのかを探っていく方向で話が進んでいきます。
会社の選び方や組織とはそもそも何なのかに加え、今グローバル企業の中で起こっている本質が事細かに綴られていきます。
本著には、何となく”働くコト”に対して違和感やモヤモヤを抱えている人にとって、現状を打開する策が散りばめられているはずです。
ぜひ一読して欲しいと思います。