世の中では無数の情報がアメーバのように増殖しています。
どれが正しくて、何が間違った情報なのか。
膨大な情報の海から、それらを見分けるのはとても難しいように思われます。
とはいえ、私たちは、毎日情報を浴びる中で、無意識の内に情報の良し悪しを取捨選択しているわけです。
ここで一つ考えたいことは、私たちは“何を基準にしてその情報受け入れているのか”ということ。
恐らく、その答えは“信頼”なのだろうと思います。
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情報の価値と信頼性
もちろん、情報に対する”価値”は大切です。
いかに正確で間違いのない情報であるかに加え、その情報を知るコトによって、自身に変化をもたらしてくれるかどうか。
『街場のメディア論』の中で、内田樹氏は以下のように述べています。
情報を評価するときに最優先の基準は「その情報を得ることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」ということです。(p40)
と。
あるいは、書き手に対する信頼性も重要な要素でしょう。
完璧な情報なんて一つもない
所詮、書き手は人間です。
新聞やテレビといったマスメディアが誤報道をしてしまうことがあるように、時には間違った情報を流してしまうことがある。
その人が「正しい」と言ったことが100%正解ではないということは往々にしてあり得ます。
“信頼”とは、決して一朝一夜でお互いの中に築かれるものではなく、何度も何度も読み手と書き手の間で情報交換が行われる事によって、構築されていくものなのです。
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発信者に対する信頼性とは?
では、ここでいう発信者に向けられた信頼とは一体何なのでしょうか。
データとして、「発信する内容の信頼度が高い人」、という定義が出来るのかもしれません。
ただし、これでは”発信し続けていない人”はその枠から外れることになってしまいますし、情報発信を始めたばかり人も同じ枠の中に入ってしまう。
では他に考えられる要素はないのだろうか。
私が考える他の選択してとしては、
“物事を懐疑的にみて、比較をし続けている人”
という見分け方をしている節があるように思いました。
というのも、“断定的に物事を語るコトは簡単”だからです。
曖昧な結論こそが大切なのでは
例えば、”若者が結婚しないのは、恋愛に興味がないからだ”という言説があります。
たしかに「結婚率の低下→恋愛に興味がない」という結論に結び付けることは可能です。
しかし、本来はその他にも考慮すべき点が沢山あるはず。
社会構造自体が変わっていることも要因の一つだろうし、若者たちの価値観にも変化が起きているのかもしれません。
そうした複数の要因に対して、「あれもこれも関係しているのでは?」という、結論に対してお茶を濁すような内容を含めて、議論されているかが大切なんじゃなかろうか。
最後には曖昧な結論になってしまうかもしれないけれど、本来は多様な選択肢を取り入れつつ、情報の精査がなされた方がいいんじゃないかと思います。
比較の歩みを止めないこと
そのためには、「比較をし続ける」必要があります。
今まで「粘り強く比較をし続けていた人」であっても、一度歩みを止めてしまえば、その人に対する信頼性は低下してしまいます。
常に世界は変化し続けていますし、新しい出来事は毎日のように積み重なっていくからです。
なので、比較はし続けなければいけません。もしその手を止めたなら、その人の情報の価値はその時点で止まったままになってしまう。
私たちが未来へと新しい変化の中を歩き続けていきたいならば、その人物は置いていくしかないのです。
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“肩書”ではなく”信頼性”が評価される社会
また、これは情報に限らず“他者に対する信頼性”も同様のことなのでしょう。
今までのように、「地位や名声がある人物」という”肩書”ではなく、信頼できる人(信頼できる情報を提供してくれる人)という観点で判断することになるはずだし、その視線は自分にも向けられるようになってくる。
比較を続けなければ、自分自身が置いていかれることになるのかもしれません。
岡田斗司夫氏は『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』の中で、貨幣経済に加えて、評価経済社会の波がすぐそこまで来ていると言っています。
つまり、貨幣が重要な力を持っているのはもちろんだけれども、一方で”人の評価”が重要な力を持つということなのです。
「あいつはいいやつだから手伝ってやるか」とか「役に立つ情報をくれたから、こっちもいいこと教えてやろう」とか、そうした他者への”信頼性”を担保として、ネットワークが形成されていく社会。
信頼性という観点から言えば、
「他者からの信頼」
「情報に対する信頼度」
この両者の間には、相関があるように思われます。
粘り強く比較し続けて、歩みを止めない事。継続して活動していく指針を持つことが大事だと感じる今日この頃。