ネットが浸透するに従って、他者の生活や価値観を垣間見る機会が増えました。
その影響もあってか、自分と異なる他者に対して、「精神的に寛容になれる人」は多くなったんじゃないかと感じています。
しかし一方で、「みんなが他者に寛容で、精神的に豊かな社会」において、
僕たちは「幸せになれない」のでは?
とも思っています。
この記事では、以下の2点についてお話ししていきます。
- 「精神的な豊か=幸せ」ではないこと
- 自分の判断基準を持つ大切さ
幸せの条件
「精神的な豊かさ」では幸せになれない
精神的な豊かさと幸福。
一見すると、これらは正の相関があるようだけれども、本当にそうなのでしょうか?
例えば、TwitterやFacebookなどのSNSを利用すれば、他者と簡単に繋がるコトが出来ます。
日々の些細なできごとを呟くだけで、コメントやいいねが貰えるので、承認欲求が満たされます。
そこには身分や育ち、あるいは学歴などのコンプレックスから解放された、理想的な社会が広がっているのです。
しかし、そこで僕たちは気づくはずです。
精神的に豊かな、理想的な社会になったとしても、幸せにはなれないんじゃないかと。
「物」があっても幸せになれない
このような社会の行きつく先は、物質的な豊かさを求めた時代と同じなのかもしれません。
20世紀の日本では「荒れ果てた荒野をいかに復旧させるか」、が課題でした。
- 満腹になるまで食べたい
- 便利な道具が欲しい
そうした人々の願いが、高度経済成長を促進し、僕たちは数々の便利な道具を手に入れました。
冷蔵庫、テレビ、洗濯機といった優れた電化製品は、暮らしを便利にし、豊かな生活をもたらしてくれました。
物に囲まれていれば、人は幸せになれる。
そう信じた、あの頃。
けれども今僕たちは
「物があっても幸せにはなれないんじゃないか?」
という思いを、心の片隅に抱いているんじゃないでしょうか?
これからも技術は進歩し続けるでしょう。
きっと、他者からの承認を簡単に満たせる時代がやってきます。
満たされる事で、承認の輪が広がる。
点と点が結びつき、一本の線となる時代がやってくるのでしょう。
Google翻訳で世界中の人々と会話ができるように。
欲しい物がボタン一つで、翌日家に届いてしまうように。
フランスの作家ジュール・ヴェルヌが言うように、「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」のかもしれません。
これまで人類は、不可能を可能にし続けてきました。
望む未来に向かって進み、その結果を獲得してきたのが、人類の歴史なんです。
社会は寛容さを手に入れ始めている
すでに社会は、精神的な豊かさを手に入れ始めています。
自分を含め、若い世代の間では、確実に他者に対して、寛容な文化が根付いてきていると感じます。
それぞれが、独自のネットワークに所属し、コミュニティの中で自身の立ち位置を見出す中で、楽しみを発見していく世界。
小さなことで上げ足を取り、他者を痛烈に非難する場面にも遭遇するけれど、自分と違う人達の生き方や考え方を許容している人は沢山います。
ブログを始めて知りましたが、世の中には、自分とは違うユニークな世界で生きている人がいるものです。
小さな社会の中で、特定の価値観を吸収する一方で、そうした多様な刺激をインプットするのも大切なのかもしれません。
「承認」で人は幸せになれない
とはいえ、それだけでは僕たちは幸せになれません。
他者からの承認を原動力にしている限り、いつまで経っても心は満たされる事がないでしょう。
世界は常に移ろい続けています。
周囲の気持ちや評価だって1分1秒、刻々と移り変わっていきます。
そんなものに頼っていては、たとえ他者が精神的に寛容になってくれたとしても、日々悩みは尽きないでしょう。
最後に
僕たちに出来る最善の策は、「自分の中に判断基準を持つ」ことだと思います。
たとえ、他人から見ればどうでもいいような、価値のないようなものでも、
「自分にとって大切だと納得できる基準」
に従って、物事を積み重ねていくこと。
世の中に不満をぶつけ、今ある現状を打開しようとしないこと。
日々の生活の中で、「これがいい!」と感じた道を選択していくこと。
余りにも情報が溢れている現代だからこそ、大切にしたい方針だと感じる、今日この頃。