読書

【おしゃれと無縁に生きる】責任逃れの言い訳と日本語の乱れ | 村上龍 著

先日、村上龍さん著『おしゃれと無縁に生きる』を読みました。

 

軽いエッセイながら、幅広い分野に対する示唆に富んだ本であり、とても面白かったです。

当記事では、以下を中心にご紹介していきます。

  • 堕落しているのは、”日本語”ではなく我々人間

  • 責任を曖昧にする言葉の流行

  • 責任を回避したい人々

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日本語の乱れは、”日本語そのもの”のせいではない

特に印象的だったのは、「日本語はあくまでもツール」であるという視点。

少し引用してみます。

考えてみれば当たり前のことだが、日本語自体が乱れるわけではない。

誤った組み合わせで用いて、その機能を阻害し、日本語という言語体系を堕落させるのは、それを使う人である。

日本語そのものは、講義のツールであり、ニュートラルなものだ。

言語はあくまでツールであって、使うのは人間である。

つまり堕落しているのは、日本語ではなく我々人間だというのです。

ただ「新語」や「造語」は世の中に絶えず存在します。

例えば1990年後半には、女子高生たちの間で、「チョベリグ」と「リョベリバ」という言葉が流行しました。

ちなみに「リョベリグ」は「超ベリーグッド」の略であり、「チョベリバ」は「超ベリーバッド」の略です。

これらは、「社会に対しての反抗を示す」あるいは「既存の体制や組織を嫌う」ために作られた造語であるコトが多いです。

だが、符牒や造語は可愛いもので、日本語の堕落などに結びつくことがない。

わたしは「チョベリグ」という造語が案外好きだったが、あっという間に死語になった。

作られた造語は、時代が風化するにつれ消えてゆきます。

  • 時代の流れに逆らうため

  • 組織や気に食わないものに対する敵対心

  • 自分達の振る舞いやグループを肯定するもの

造語にはこのような側面があります。

では造語と違い、「日本語の乱れ」を象徴するのはどのような言葉なのでしょうか?

責任を回避する免罪符

その言葉の象徴は、「自らの責任を曖昧にする」言葉だと、村上さんは言います。

たわいもない符牒や造語とは違い、日本人や社会の堕落を象徴する表現もある。

その代表が「○○させていただきます」という表現だ。

へりくだって、謙虚で、敬意を表している印象もあるが、実際は違う。

「本日司会を務めさせていただきます○○でございます」

という丁寧語には、誰か他の権威ある人に司会を依頼された、あるいは司会をすることを許された、というニュアンスがある。

そして結果的に、「自らの意志」を曖昧にすることが出来る。

誰しもが心の奥底で、「責任を曖昧にしたい」と感じているコトでしょう。

悪質な行為や失敗をすれば、必ず「お前がやったのか!?」と追求を受けます。

そして責任を着せられたが最後、その人間は断罪され、謝罪と後悔の念に打ちひしがれることになる。

だから「責任を曖昧にして、言い逃れができる言葉が流行した」というのです。

僕は本当にその通りだと思うのですが、最近ニュースで取り上げられる不祥事はそんな責任逃ればかりですよね。

スポーツで相手チームにケガをさせるように指示したにも関わらず、「私はそのようなことを指示させて頂いておりません」と弁解し、商品に問題が発覚すれば「そのようなことは知らされておりません」と釈明する。

一見丁寧に謝罪しているようで、その裏では別の心情が渦巻いているのが透けて見える。

  • 俺は知らなかったんだから許してくれ

  • 私は悪くない、あいつが悪いんだ!

あくまで「責任は他人のせいであって、自分には責任がない」という心情がありありと伝わってくる。

これは言い変えると、

「自らで意思決定することからの逃避」であり、「他者への甘えが推奨されているような社会」

を意味しているのかもしれません。

「甘え合うこと」が善となっている社会からの、暗黙の養成と強制が働いているのである。

“責任を引き受ける人”がいない

以前、以下のような記事を書きました。

https://it-information-engineering.com/society-adalt

「他者を批判する」あるいは「消費者マインドを持つ」人々で溢れ、日本人は幼児化し始めているのかもしれません。

情報化社会の中で膨大な知識は持っているかもしれないけれど、彼らは”教養“を持ち得ていないと。

そして本音をむき出しにし、個人の中に多重人格を持ちえないと。

日本人の幼稚化は、

  • 誰もが責任を回避したい
  • 誰かのせいにしたい

という”人々のマインド”と”言葉”が重なった結果なのかもしれません。

最後に

偉そうな事を言いましたが、僕自身もまだまだ未熟な部分が多いです。

責任を回避したいがために、「その場から逃げよう」とすることだってありますし、上で述べたように「丁寧な言葉使いをしつつ、”俺の責任じゃない”」と言い逃れしてしまうこともあります。

「そんな自分の思惑は相手にバレていないだろうな」と思っていましたが、今一度振り返ってみると、相手には筒抜けなのだと分かりました。

だって、自分でもそのような相手の感情は簡単に理解できるのですから。

やはり「言葉使いから、自身の思惑は簡単に見抜かれてしまう」ということは肝に銘じておく必要があると改めて思いました。