“学ぶ”という過程の中には、”真似る”が含まれていることが往々にしてある。
なぜなら、真似ることを繰り返す中で人は学び、知識や技術を手に入れていくからだ。
真似ることは、学習のスタート地点。言葉を話すのだって、記憶にないだけで、家族や他者からの声を聞く内に話せるようになったはず。人は生まれた時から”真似る”事を通じて、学習していくのです。
今回は、”真似る”ことの先にある”個性”について考えていきたいと思います。
真似ることは”学ぶ”こと
確かに、人は真似ることを通じて、学んでいきます。
ということは自分のオリジナリティを出したいといっても、それらはすべて模倣に過ぎないのか。一体、個性はどこにいってしまったのだろうか。
感覚的に、”個性”を発揮するためには、真似ることを繰り返し、そこにアレンジを加えていく必要があるように思う。
守・破・離と呼ばれるように、まずは基本を”守った”上で、学んだ基礎を”破り”、オリジナリティを出すためにその場から”離れていく”といった過程を辿っていくのでしょう。
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素直と反抗のバランスが大切
まず初めに立ちふさがる「守」の段階では、強い”忍耐”が必要になってくる。
真似るためにはお手本となる誰かが必要になるし、時に教えを乞うこともあるだろう。
その際、教えられた事を「はい、やります」とすべてを受け入れられればいいけれど、時には「なんでこんな事が必要なんだ」と思うことも出てくるはず。教えられていることが必ずしも正しい保証はないし、師匠と弟子との関係性は、ある種の信頼関係でしか成り立たない。
ただ、素直に師匠の言うことを聞けば成功するかといえば、それも違う。
言われたコトを受け入れ続けていても、”守”の段階からは抜け出せないだろうし、反発しすぎれば、今度は”離れる”力が十分身につかないかもしれない。
要は、素直と反発のバランスが大切なのでしょう。
その過程を経て、人は一人前に近づいていくことが出来るのです。
守破離の先にある”プロ”
一人前というのは、ここでは“自身で立つことが出来る”と意味です。つまり、その道のプロです。
例えば、プロ野球選手はその技術によって対価としての収入を得ることが出来ます。また、デザイナーは描いた絵によってお金を手に入れる。
高い専門性と技術を手に入れることが、プロがプロとして扱われる理由であり、ほんの一握りしかその場に辿りつくコトが出来ないからこそ、人々は彼らに称賛を与えるのです。
仮に簡単にその地位へ辿りつけるなら、それはもうプロではなく、プロの顔をした平凡に過ぎないのです。
とはいえ、必ずしもプロにならないといけないワケではありません。すべての人が特定の道で生計を立てられるはずがないですし、「守・破・離」自体を意識する必要がない道もある。
別に”離れなくても”、身を立てられなくても、自分らしさや個性を生み出せる事もあるのです。
それは例えば、趣味で絵を描くことであり、料理をすることだってそう。趣味の範疇で、好きなことを自分の望むやり方で表現することが個性に繋がるということです。
趣味としても”自分らしさ”とプロとしての”個性”
ただ、ここで一つだけ注意が必要なのが、”趣味”としての”自分らしさ”は活動の幅が狭くなってしまうということです。
個性があるかもしれないけれど、それは所詮大多数から頭一つ抜き出ている程度にしか過ぎません。周りが追随してくれば、その”自分らしさ”という差異は簡単になくなってしまうはず。
それに引き換え、「守・破・離」を経て手に入れた”個性”は、容易に手に出来ない奥行きを持っており、その場に辿りつくコトが困難です。
幅広い知識を教養として扱えるようになるために多大な時間が必要なように、その”個性”を得るまでには時間がかかる。一部にしか到着出来ない厳しい世界なのです。
一体どこへ行きたいのだろうか?
結局何が言いたかったかというと、“自分のたどり着きたい場所”を考えようよということです。
趣味としての”自分らしさ”か、あるいは”身を立てるための個性”のどちらが欲しいのだろう。
前者であれば、恐らくすぐ手に入るはずです。でも、すぐに陳腐化し、その”自分らしさ”はコモディティーという大海に飲み込まれてしまう。
一方、後者が欲しいのならば、「守破離」の道を経なければなりません。その道は困難であるし、限りなく狭い道であるという覚悟も必要でしょう。ただ、すぐに周囲に飲み込まれることはなく、大抵の人間はその場に到達するまでに脱落していくはずです。
どちらにたどり着きたいのか。まず目標地点を考える必要があるのだろう。