みんな心の中では色々な思いを抱えて生きているんだな~。
表面的な明るさに包まれた闇を表現していくことの大切さを4人の女性が教えてくれました。
普段、映画を見てうるっとしてしまうことは少ない自分が、本作を見終えた途端、何となくホロット泣けてしまったんです。
魚喃キリコさんの漫画「Strawberry shortcakes」を映画化した本作は、題名の通り”甘酸っぱい”物語でした。
手に取ったきっかけは「なんとなく」。恐らく「チョコレートアンダーグラウンド」という小説が印象に残っていて、名前が似ていたのが理由だと思います。
なんとなくで観たものの、一度話が進みだすと物語の中にどんどん引き込まれていきました。
交わることのない4つの点
お話しの始まりは、好きな男性の足に縋り、”自分を捨てないで欲しい”と懇願する女性のシーンから始まります。
単純な失恋映画なのか?
一瞬そう思うのですが、話が進むにつれて登場する女性たちが“好き”を心に抱えながら、上手く本心を表現出来ない事が分かってきます。
冒頭で好きな男性に棄てられ、新たな恋に焦がれるフリーターの”里子”と彼女が勤めるデリヘル嬢の”秋代”。孤高のイラストレーター”塔子”と同居人である恋に恋するOL”ちひろ”。
4人はお互いに共通点を持っているにも関わらず、一向に交わることがありません。
点と点同士が繋がって線にならないように、磁石の同極が反発し合うように、近づこうとすると離れてしまうのです。
登場人物が女性ということもあり、女性向けの映画に思われるかもしれませんが、男性でも十分に楽しめる作品だと思います。
ただし、表面的な明るさを求めている人にとっては退屈であり、じめじめとしてつまらないと感じるかもしれません。万人に薦めようとは思わないけれども、本作にハマる人は少なくないと思います。
どうしようもない閉塞感を抱えている人や、先行きの見えない不安を感じている人、恋愛での自意識の揺れにもがき苦しんでいる人などなど。
そんな人たちに、この映画が届けばいいなと心より思います。
4者の価値観と日常風景

魚喃さん原作の映画である本作は、このような構図で物語が進んでいきます。
里子X秋代 ちひろX塔子の2項対立
里子(池脇千鶴)と秋代(中村優子)は同じデリヘルで働いでいる同僚です。
実際には、里子は受付しかしておらず、秋代は淡々と仕事をこなしています。
彼氏に棄てられた”里子”は明るい幸せな未来を”神様”に祈り続けています。道ばたに落ちているただの石ころを神様と崇め奉る姿は、健気で素直な少女をイメージさせるのです。
一方”秋代”は、長年好きな”菊地”との友人関係を崩さないように、どうしても一歩が踏み出せずにいます。
友達としての関係を崩さないために、あえて地味なふりをしたり、女性としての内面は見せないようにする。
“好き”という気持ちを押し殺し、デリヘルとしての仕事に勤しみ、死んだような日々を送っています。寝る場所も棺桶の中という徹底ぶり。いつ死んでもいいと思いながらの毎日を過ごしているのです。
“ちひろ”(中越典子)と”塔子”(岩瀬塔子)は同居しているルームメイトですが、相手の事があまり好きではありません。
“ちひろ”は、男性に依存する典型的な重いタイプであり、”塔子”は一人でも孤高にやっていける自立したタイプ。表面上では、上手くやっているようでも、心のどこかではお互いをバカにしていました。
里子と秋代。ちひろと塔子。
二組のペアで物語は進行していき、両者のストーリーは交わるコトがありません。しかし、最後で塔子が書いた神様の絵を秋代が手にします。そこに駆け寄る塔子の姿が描かれ、物語が続いていれば、お互いのストーリは交わっていた可能性もなくはないのでしょう。

「自意識」という鎖

さて、本作では2項対立で話が進んでいくわけですが、私が印象に残ったのはちひろと塔子のお話しの方です。
中村優子(秋代)演じるデリヘル嬢の濡れ場などの見どころはあるのですが、その多くは報われない寂しい演出であり、辛くなってしまったからです。
ちひろは、永井(加瀬亮)と恋愛関係に発展するも、「重い女」と思われて引かれてしまいます。度重なる電話や、家へご飯を作りに行ったりと家庭的な一面を見せるのですが、これが逆効果になります。
結婚するにはいい女性でも、「結婚」をちらつかせられるとちょっと尻込みをしてしまう男性。
そんな女性と男性の心理が折り合わずに、最終的には関係は破たんしてしまうのです。
薄々とは永井の気持ちに気づきながらも、尽くし続けるちひろの姿は健気で苦しくなってくるほどでした。
なぜなら苦しさを抱えているにも関わらず、想いは内に秘め、表面上は明るく振る舞う。塔子にも相談せず、日記に想いを綴るという逃避場所しか持ちえなかったからです。
一方の塔子も、表向きは孤高のイラストレーター。世間にも知られ、名声も自由を手にした気ままな女性として描かれています。
しかし、その裏ではプライドの塊で、自分の絵を否定される事は許せない。ストレスから食べたものをすべて吐き出してしまう、拒食症のような症状も持ち合わせていました。
表の華やかな姿とは反対に、裏では誰にも助けを求めることが出来ず、声を上げることが出来ない。自意識というプライドが邪魔をして、ちひろのコトを見下していたのかもしれません。

プライドを捨てることによって伝わるもの

物語の後半、ちひろは、トイレで喉元に手をつっこみ、何とかしてすべてを吐きだそうと苦しむ塔子を発見します。
見られたくない姿を見られた。
こんな自分を見たちひろは自分の事をバカにするに決まってる。そう思ったことでしょう。
しかし、ちひろは塔子に駆け寄り彼女を抱きしめます。磁石のように反発し合っていた二人が重なり合った瞬間でした。
上手く自分を表現出来ない不器用なもの同士が重なる。
本当の相手を知って初めて気づく、実はお互い似た者同士だったんだと。
ラストの海辺でのシーン。
少年時代に戻ったかのように、お互いの気持ちを素直に表現しあう二人の姿はとても眩しく見えました。
学生時代、何でもない友人との会話やくだらない出来事がすべてキラキラして輝いていました。虫を取ったり、川遊びしたり、子どもの頃は何にでも好奇心を持って興味深々に首を突っ込んでいた。
でも大人になるにつれて、周りからキラキラや理想は消え、現実という名の巨人が目の前に覆い被さってくる。何も考えずに楽しめていたあの頃はもうやってこない。そう思っていました。
最後のあのシーンは、そんな現実を打ち払い、純粋で無垢でいることがどれほど素晴らしいのかを思い出させてくれたのではないかと感じています。
淡々と続く平凡な毎日の中にも、輝きを見つけられるということ。
そう感じたからこそ、最後にはホロッときたのだと思います。
たぶん、いや、きっと間違いなく何度も見直すことになるこの一作。
ぜひみなさんも観てみて欲しいですね。