人間が持つ感情の中で、最も扱いずらいのが”怒り”であると感じます。
楽しさや寂しさと言った感情が、自身の内側に向けられたものであるのに対し、怒りは多くの場合、”外側”に対して向けられてしまいます。
そして怒りには、多くの場合、その裏に目的が潜んでいます。
怒ることによって相手をコントロールしたいだとか、自分を正当化したいだとか、何かしらの目的があるのです。
怒りを発露するだけが目的であれば、いいのかもしれないけれども、そんなコトは多くない。
怒りに身を任せてしまうコトで、一時の感情に身を任せてしまうコトで、長期的に見れば損失を被ってしまうかもしれません。
そして、本来持っていた目的を見失ってしまうかもしれない。
本来の目的を見失わないためにも、怒りを冷静にコントロールする必要があると感じる今日この頃。
今日はそんなお話し。
怒りを感じるのはいいけれども、流されてはいけない

「怒らない=穏やかな人」とイメージされる方は多いです。
たしかに怒ることがなければ、穏やかな人だと認定されて、感情が安定していると思われるでしょう。
周囲と波風を立てず、調和を保って行動する。
常に余裕を保ち、平穏な心でいられるようにベストを尽くす。
動揺することなく、自分の意志に従って感情をコントロールできる振る舞いが出来れば理想的でしょう。
けれども、いくら穏やかに振る舞うコトが出来ても、完全に怒りを取り除くコトは、非常に困難です。
僕たちの周りはストレスで溢れています。
適度なストレスは、生きていくのに必要だと言われますが、その閾値を超えてしまっているようにも感じています。
情報化が進み、機械に合わせたスピード感を求められ、常にギリギリの状態で進んでいかなければならない社会。
ストレスがない人などいないでしょう。
時代は変化し続け、僕たちは膨大な刺激に晒されています。そんな状態の中では、少なからず怒りを感じる場面は増えてくるのです。
迷惑を掛けられたら、誰しもムッとするでしょう。
トラブルや不運に巻き込まれたら、落ち込んだり、イライラが募ることもあります。
まったく怒りを感じずに、日々の生活を送れるのなら、それは聖人君子といっても過言ではないかもしれません。
怒りは感じて当然です。
大切なのは、感じた怒りをいかにコントロールするかなんじゃないかなぁと。

目的と手段を混合することなかれ

怒りをコントロールするコトの必要性を感じるのは、「目的」を見失わないようにするためです。
ある「目的」を設定し、それを実現させるためには、その「手段」を実行し、努力することが大切になります。
大まかに以下の3点を定めるコトで、目的は実現に近づいていくのです。
- 戦略:最終目的を達成するための大まかな計画方針
- 作戦:戦略を成功に導くための、個別的・具体的計画
- 戦術:作戦を成功に導くための現場での手段・方術
大まかな目的を立てるコトで、成し遂げたい事柄を決定する。
目的のための、具体的な計画を練り、成功への道を模索する。
そして、計画を達成ために実行する手段を決定する。
これらが確定することで、初めて目的は近づいてくるのですね。
ここで問題になってくるのが、先ほどの“怒り”という感情です。
一時の怒りに流される事で、本来の目的が歪んでしまいます。目的が歪んだコトによって、計画が崩れ、目的達成の手段が分からなくなるという、負の連鎖を生み出してしまうのです。
これは非常にもったいない事です。せっかくの目的が、一時の些細な気の迷いで逸れてしまうというのは。
怒りを感じても、表には出さないようにすること。
例え心の中では、沸々と荒々しい思いを抱いていたとしても、表向きは平静を装い、笑うコト。
息を整え、深呼吸することで、心は冷静さを取り戻すでしょう。

最後に

今回怒りについて紹介したのは、『最強の教訓! 世界史 (PHP文庫)』を読んだコトが関係しています。
歴史を紐解いてみると、勝ち負けが決まる時、感情がコントロールできずに愚策に走ってしまうために負けてしまう事例が多々あります。
例えば、カルタゴの名称ハンニバルは、連戦連勝の自らの力を過信したことで、最終的に弱点を突かれ、戦いに敗北してしまいました。
また、軍神と呼ばれた上杉謙信は、圧倒的な力を持ちながら、天下統一を成し遂げられなかった。
その背景には、
“他者の助言を受け入れられない”
“感情に任せた結果、愚策に走る”
といった、感情への配慮が足りなかった側面があったのです。
彼らのような天才たちでも、気を緩めると疎かにしてしまう感情のコントロール。
我々のような凡人は常に感情の変化に気を配り、意識し続ける必要があるのではなかろうか。
さもなければ、本来の目的を見失い、大海原に漂流してしまう。
目的地へと辿り着くためには重要なファクターなんだと思います。