第3回は、「価値」についてのお話しです。
『資本論』の中では、「価値」というものは「使用価値」・「交換価値」の2種類から成ると定義されています。
それでは、具体的にどのような違いがあるのかを見ていきましょう。
人間生活にとって一つの物が有用であるとき、その物は使用価値になる。(中略)
我々が考察する社会形態では、使用価値は同時にまた、もう一つのものの素材的な担い手になっている。それがすなわちー交換価値である。
マルクスは、商品には「使用価値/交換価値」の2種類があると言います。使用価値というのは文字通り、使って役に立つという意味ですね。
「使って役に立つのが商品である」
でもこれは逆に考えると、使って役に立たない物は商品ではないということになります。例えば、鉛筆は文字を書ける事が商品の価値ですし、みかんであれば、食べると空腹を満たすことが出来るということが商品の価値になります。
このように、商品の価値とは使用して役に立つことなんだと言っているわけなんですね。
交換価値とはどんなもの?
ではもう一方の交換価値とは何なのでしょう。
これは例えば、お米を作っている人が、お米を野菜と交換する場合を考えてみると分かりやすいです。
お米と野菜は交換することが可能です。なぜ交換できるのかというと、「お米」と「野菜」のそれぞれに使用価値があるからなんですよね。
どちらも食べると空腹を満たすことが出来るので、使用価値があると言えるのです。
もし、道端に落ちている石ころや葉っぱと交換して欲しいと言われたらどうでしょう。もちろん、石ころにも用途はあるでしょうが、空腹を満たすという使用価値を満たすことはできません。
だから、石ころと交換しようとは思いませんよね。
でも、野菜とだったら交換しようという気になる。
つまり「商品同士が交換される交換価値は、使用価値があるから出来ることなんだよ」ということなのですね。
なぜ等価交換できるのか
さあ、ここでマルクスは考えました。一体なぜ、「お米と野菜は違うもの」なのに、等価交換することが出来るのだろう。一体その価値を形作っているものの正体は何なのかと。
そして、次の結論に辿り着くのです。
これらは作られたものだよね。ミカンやリンゴだったとすれば、そこで育てられ、もぎ取られたものだよね。
ダイヤモンドだったら掘り出されたものだよね。つくるとか、もぎ取るとか、掘り出すというのは人間の労働によって成り立っているでしょう。
つまり労働というものが全部にあるからこそ、全部イコールで繋がっているんじゃないか、というふうに考えたわけね。
どういうことかというと、どんな商品であっても、人間の労力が加えられているということなんですね。リンゴであれば、育てる必要があるし、ダイヤモンドであれば掘り出さないといけないですし、人が手を加える必要があるのですね。
商品の価値というものは、この「人間がかける労力の総量によって決まる」んだと言っているわけです。
労働の量が多いほど価値がある
これが分かると、世の中にある商品がなぜその値段なのかが分かってきます。
例えば、「手縫いの服」と「機械で作られた服」があるとします。これらの洋服は素材や形に違いのない、全く同じ商品だと思ってください。
もしそれらの商品がお店に並んでいた場合、どちらの方が値段が高いと思いますか?
恐らく、手縫いで作られた服の方が高い値段で売られているはずです。これはなぜかというと、手縫いの服には、機械で作るよりも多くの労力が掛かっているからなのですね。
もちろん、同じ洋服なので、使用価値に違いはありません。しかし、人が手縫いで行うと、機械で作るのに比べて労働時間が沢山かかります。
機械では1時間で作れるものが、人間が作れば1日かかったりするわけです。その分の値段が商品にプラスされているということなのですね。
労働量はどうやって測るのか
ただし、ここで問題なのは、労働の量をどうやって測るのかということなんですよね。手縫いの服を作るにしても、人によって必要な労働力は違います。
1日で作れる人がいれば、1週間経っても完成させることが出来ない人もいるはずです。
では、どうやってこの量を計測すればいいのでしょう。
マルクスは次のように考えました。
サボりながら働いている人もいれば、真面目にせっせと働いている人もいる。ということは、社会全体としての平均的な労働時間というのが出てくるだろう、と。
マルクスがいう労働時間とは、社会的に平均的な労働時間なんだね。
これは、同じ仕事をするのでも遅い人と早い人がいる。その平均値をとれば、大よその必要時間が分かるよねということをいっています。
そして、これから説明することは”働く人”に最も知っておいて欲しいことなのでじっくり読んでみて欲しいです。
他人の役に立ってこそ商品である
[memo title=”MEMO”]
自分の生産物によって自分自身の欲望を満たす人は、なるほど使用価値をつくってはいるが、しかし商品をつくっているわけではない。
商品を生産するためには彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を生産しなくてはならない。[/memo]
マルクスはここで、「使用価値があるものが、すべて商品になるわけではない」と言っています。
前回、商品というのは人の欲望を満たすものだと言いました。みかんは空腹を満たしてくれますし、スポーツは私たちの「楽しみたい」という欲求を満たしてくれると。
でもだからといって、使用価値があるものがすべて商品というわけではないのですね。
自給自足を例にして考えてみましょう。
自給自足をするとなれば、身の回りのものはすべて自分で調達することになりますよね。食料を確保するためには、お米や野菜を作るために栽培しなければいけませんし、お風呂に入るためには薪拾いをして火をおこさなくてはいけません。
でもこれは自分のためだけにすることであって、他の人のためにするわけではないんですね。たしかに自分にとっては使用価値があるのだけれど、人の役に立っていないので商品ではないということなのです。
つまり、商品になるためには、「他人にとっての使用価値」があるのかが重要になってくるのです。
僕たちは働いて、色々な物を作ったり売ったりします。もし作ったものが売れれば、欲しがっている人がいるということなので商品になります。
でも、誰も欲しがらなければ、使用価値はあっても、商品としての価値はまったくなくなってしまうのです。
もし、みなさんが働いて誰かが欲しがる商品を作れているということは、商品の価値を提供しているから。
私たちの労働一つ一つが価値を提供している素晴らしいものであるということなのです。
最後に
今回は、商品の「価値」についてお話しさせてもらいました。
価値には「使用価値」と「交換価値」の2種類がある。そして、その価値というのは、労働の総力で決まるのであって、総量というのは、社会的な平均値の事を指している。
また、商品になるためには「他人のために」なることが重要で、人が欲してこそ初めて商品になるということでした。
次は、「貨幣」についてのお話しです。
それでは今日はこんな感じで。
グッドラック!